【考察】最終章  言語について チカラと可能性

前章では「言語の限界」というような話を書いたので、本章では「言語の持つチカラ」を書いてみたい。

言葉のリズムというものもある。日本では、和歌、短歌、俳句というような普通の文章とは異なる形態がある。簡単に言うと、「5・7・5」とか「5・7・5・7・7」という言葉の並びになっていると、何となく心地良い感じがするものだ。これは日本語の特色なのか、日本人の性質なのかわからないが、5文字とか7文字の並びだと記憶に残るというか印象に残る。平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。~」もそうだし、日本史の勉強でも「鳴くよウグイス平安京」「いい国つくろうキャバクラ幕府」という覚え方があるし、元素記号だって「水平リーベ、僕の船、ナマガルシップ~」だし、ルート2は「ひとよひとよにひとみごろ」でルート5は「富士山麓オオム鳴く」と教えられたりするわけだ。今は冥王星が外れてしまったけど「水金地火木どってん海冥」も字余りだけど『7+7』なのだ。

僕はこのブログを書く際に、このようなことを考えているわけではないのだが、工夫して文章を書いている人もいるかもしれない。その場合、読んでいて心地良いというか、読む人の心に残るのかもしれない。

言語には、「人間が事象を認識するためのモノ」「人間が思考する際に必要なモノ」という役割以外に、人間に対する『何らかのエネルギー』を持っているのではないか。

そもそも、言葉には意味というものを前提として存在しているのだが、言葉の組み合わせでパワーも持つ。人を感動させたり、喜怒哀楽させたりするのだが、さらに言えば、人を動かすチカラを秘めている。もちろん、言葉を受け取る側の状況や能力もあるのだろうが、言葉に影響されて行動を決める人だっているのだ。「アラブの春」ではないけれど、時として言葉が人を動かすエネルギーになる気がする。バタフライ効果があるのかどうかわからないが、ある閾値を越えると動くことがあるかもしれない。

ヒトラーは演説を基本的に夕方にしたと言われている。人間は、どうも夕方になると人の話を受け入れやすくなる性質があるらしい。決してヒトラーを肯定する訳ではないが、多くの人を共感させる言葉があって、さらにそれを波及させる工夫があるのではないか。「Yes We Can」も、単純なワードの組み合わせだが、何かしら人を高揚させるパワーを持っていたと思う。

また、言葉を連ねて文章化するときに、その言葉群が意味することとは別に、暗号的に何らかのメッセージを込めたりすることができるかもしれない。それが読む人々の無意識に影響を与えることができるかもしれない。何かカルト教みたいな話になってしまったが、言葉には限界もあるけれど、とてつもないエネルギーもあるのではないか、と思っている。

最近、宇宙の話や量子論の話を勉強していると、「見えないけど存在している」みたいなことが多い。宇宙ではダークマターというか暗黒物質の方が、見えている星よりずっと大きな重量(エネルギー)を持っているらしい。今回の考察でも、意識とか無意識とか自我(JIGA)ということに関して、いろいろと書いてきたけれど、結局のところ、目に見えない(少なくとも脳の中の仕組みは解明されていない)話なのだ。言葉についても、本当のところは解明されていない部分の方が大きいのではないか。

ガラスを引っ掻く音は多くの人が不快に思う。言語の場合、口語は音声である。もちろん語る人の声質や周波数・波形にもよると思うが、音声であることからその言葉の響きも影響力があるのではないか。イルカやフクロウは人間とは異なる周波数帯でコミュニケーションしているわけだが、それは言葉というより音声の組み合わせである。

音楽の世界では、ヴォーカルについて、人の心に響く「コブシ」とは別に、声の波形や倍音構成でヒットするようなケースもあるらしい。また「1/f」のようなことも言われている。どこまで本当のことかわからないが、言葉を発する人によっても、聞く人に対するパワー(影響度)が異なるということだ。

最終章として、「僕がブログを書くということ」も意識して書きました。

とりあえず10章でプロットを考えていたので、本章で一旦終わります。数日後に「あとがき」を書くくらいです。

数々の書物を自分の都合の良いように解釈して、紡ぎ合わせています。なので誤読や間違った理解や浅薄な解釈があると思いますが、ご容赦ください。

また、前回に書いた結論めいたことを、ずらしたり否定したりしていますが、「さらに深く考えるとこうかもしれない」ということで敢えて書いていますので、「前と言ってることが違う」的なこともご寛容ください。